投稿

そしてわたしは無職になった #3

イメージ
そしてH市へ引っ越しの日、 全ての家財道具を会社が手配してくれた 引越し業者のトラックへ積み終えた わたしは 、 ジェンベを担いで新幹線に乗った。 ジェンベもトラックで運ぼうかと思ったが、 10年近く住んでいた地を一人で離れて 縁もゆかりもない土地に移り住むのは、 自分で決めたこととはいえ やっぱり寂しくて、 孤独感に 心が押しつぶされそうだった。 そんなわたしに、ジェンべはそっと 寄り添ってくれているような気がして、 自分で新居まで運ぶことにした。 職場の支社は、 新居から H市中心部の大きな公園を 自転車で 抜けた先にあった。 その公園は、 世界遺産や平和資料館があって シーズンになると修学旅行生や 外国人観光客であふれる 有名な公園だけど、 通勤や散歩で普通に通る人も たくさんいる。 わたしもその中の一人になって、 春は桜の花や新緑を横目に見ながら、 夏は蝉の大合唱を浴びながら、 毎日のように自転車で通り抜けた。 実は、この公園で きっとすぐにジェンべを叩いている人と 出会うだろうと勝手に思っていた。 だって、 O市の中心部にある大きな公園では、 週末の昼間などに ジェンべを練習する人が よく集まっていたから。 ジェンべだけじゃなく、 楽器やダンスを練習する人の 練習スポットだった。 わたしも何度かその公園で ジェンべ仲間と叩いたことがある。 こういう街の中にある大きな公園なら、 楽器の音を出してもいいに決まっている。 だからきっとこの H市のこの 公園にも そういう人たちがいて、 すぐに出会うことができるだろうと 簡単に思っていた。 けれど、 公園から ジェンべの音が聞こえてくることは 一向になかった。 仕事帰り、週末や休憩中の散歩途中。 転居して数ヶ月間、 いろんなタイミングで公園を 通って耳をすましてみたけれど、 ジェンべどころか、 楽器の音は何も聞こえてこなかった。 川べりはきれいに整備されていて、 緑もいっぱいあって、 ここで叩いたら気持ちいいだろうな。 こんなに練習するのにいい場所があるのに、 誰もいないのはなぜ? その謎はすぐにわかった。 ある晴れた休日の昼間に、 ジェンべを叩きたくなっ

そしてわたしは無職になった #2

イメージ
異動先は、H市だった。 当時わたしが勤めていた会社は O市が本社の広告制作プロダクションなのだが、 H市には 小規模の 支社があり 大手広告代理店内に出向というかたちで デスクを置いていた。 比較的若くて体力のある下っ端だったせいか、 H支社の仕事がなぜかよく回ってきて、 その度にH市へ出張していた。 その頃のH支社は、 出向先の代理店と組んで 大きめなコンペに立て続けに参加していた。 コンペに通ってそのまま実作業に入ったりしたら、 滞在先のホテルはおろか O市の自宅に帰るなんて到底できず、 出張中に次の出張が決まって、 トータルで月の半分以上を H市に滞在したこともあった。 独身で一人暮らしだったから 自宅を空けることには何の問題なく、 週末はO市に帰ってジェンべを叩けていたから、 不満もなかった。 H支社の新人かと思われるくらい そこら辺をウロウロしていたため、 仕事の帰りに飲みに誘ってもらえることも しばしばで。 連れて行ってもらった先で食べたお好み焼きが あまりにも美味しすぎて、 H市の人はこんな美味しいものを いつも普通に食べてるのかと、 心底うらやましかった。 しかし会社はそんなに甘くはない。 「ホテル代も新幹線代もかかって効率が悪いから、 いっそのこともうH支社で仕事したら?」 という理由で転勤が命じられた。 転勤に対しては、特に何の疑問もなく 年棒大幅アップと住宅手当、 あとはお好み焼きに釣られて すんなりと受け入れた気がする。 ただ、Yさんの教室に通えなくなるのが ものすごく心残りだった。 わたしにとってYさんの教室はすでに、 ジェンベを叩きたい欲求を満たしてくれる場所 というだけじゃなくなっていた。 ジェンベ仲間がいて、みんなで叩いて、 ただのお稽古事を超えて、 仕事漬けの日常でボロボロになった やじろべえ状態のわたしをつなぎとめてくれる 大切な居場所だった。 そこから離れてしまって、 わたし大丈夫かな? それを考えると不安で仕方がなかった。 「ジャンベをやってる人はだんだん 増えてきてるから、H市にもきっといるよ。

そしてわたしは無職になった #1

イメージ
1日のほとんどの時間を会社で過ごし、 週に一度、Yさんの教室でジェンべを叩く。 そんな生活が何年か続いた。 広告業界の仕事は不規則で、 残業も徹夜も休日出勤も当たり前だった。 Yさんの教室が終わった日曜の午後に、 ジェンべを持ったまま休日出勤することも しょっちゅうあったし、 そんなわたしを気にとめる社員もいなかった。 気づくと半年以上 まともな休みをとっていないぞ、とか そういう恐ろしいことが そこかしこで起きていたけれど、 それを疑問に思うどころか 連勤記録更新がまるで勲章のように 掲げられるような労働環境だった。 さらに暴露すると、 タイムカードすら存在しないという 労基が入ったら一発でおしまいな会社だった。 給料は年棒制だから、 残業代もボーナスもない。 年に一度プロ野球選手ばりに年棒を交渉する。 しかしその金額はプロとは思えないほど低く、 不夜城で馬車馬のように働き続けても、 コンペに勝ち続けても、 なぜかたいして上がることはなかった。 ブラックもブラック、真っ暗闇の勤務形態。 そして、 不景気のあおりをまともに受けて どの企業も宣伝費が削られる一方だったため、 広告制作のコンペは熾烈を極めた。 コンペの度に、会社に数日こもって仕事をしていた。 「クリエイティブの追求」という旗のもと、 おもしろくないものをおもしろく、 売れないものを売れるように、 何よりもクライアント様様に気に入られることが 最も重要なミッションで、 それを企画とデザインで何とかするのが わたしたちの仕事だった。 「できません」や「無理です」と言うワードは 存在しない。 「ピンチ」をアイデアで 「チャンス」に変えて「成功」させる、 そんな錬金術が必要な業界だった。 そんな中で、 自分がデザイナーとして関わった仕事の広告が、 駅貼りの大きなポスターになったり、 新聞の見開きで掲載されたり、 そしてそれが広告賞に入選したり。 多くの人の目に止まるものを作る仕事って それなりにやりがいはあったけれど、 肉体的にも精神的にも 常に追いつめられた状態で、きつかったなぁ。 崖っぷちギリギリのところで、 やじろべえのごとく

ジェンべ・フォラとの遭遇 #5

イメージ
「Hがこのあと夕方に、 新しいジェンべのバンドでライブするから もし時間があったらのぞいてみたら?」 ある日の教室で、そうYさんが教えてくれた。 HくんはYさんの友人だ。 と言っても、Yさんよりも若くて、 どちらかというとYさんよりもわたしの方が歳は近い。 Yさんを通じて会うことが時々あり、 ジェンべ教室の忘年会はいつも Hくんの実家の天ぷら屋さんだった。 その当時Hくんは、 民族音楽ベースの創作音楽を演奏するバンドで ジェンべを担当していた。 明るくてノリが良くて、でも決める時はバッチリ決めて、 鏡を見ながら練習しているという噂があるHくん、 その成果なのかどうかはわからなかったが 華のあるHくんのパフォーマンスを すごくかっこいいなぁと思ったのを覚えている。 ライブまでの時間を、 ランチをしたりYさんのお店に立ち寄ったりして 時間をつぶした。 場所は教室のあるスタジオから徒歩圏内にある、 経営破綻して閉店した老舗デパートだった。 当時わたしが住んでいたO市の 中心部南側の長くて賑やかな商店街にあり、 アールデコ調の装飾やステンドグラスが 格式ある雰囲気の歴史ある建物だった。 デパ地下の入り口は地下鉄の駅とも直結していて、 いつも人でごったがえしていたはずなのに、 まさかそんなところが閉店してしまうなんて。 不景気ってこういうことか、と思ったけれど、 景気の新芽が枯れきってしまったような時代は あの頃もうすでにはじまっていたんだなぁ。 その後わたしの身にも少なからず そういう景気の影が及ぶことになるのだが、 この時はまだ全くの他人事だった。 会場に到着した時、 すでにHくんのバンドの演奏は始まっていた。 もとデパートだった姿を残したままのフロアで、 ジェンべの音が高らかに響いていた。 メンバーは全員日本人の男性だった。 その中に、ママディさんのワークショップで出会った あのIくんがいたことにも驚かされたが、 もっと驚いたのは、 Hくんのバンドにはジェンべだけじゃなく、 ドゥンドゥンを演奏している人がいたことだ。 ドゥンドゥンとかサンバンとか

ジェンべ・フォラとの遭遇 #4

イメージ
それからわたしは、 ママディさんの教則ビデオを Yさんのお店で購入した。 ママディさんの解説付きの 初心者向けリズムが数曲入った ジェンべの入門ビデオだ。 有名なのでご存知の方も多いはず。 それを見て、まずわたしが気づいたのが、 わたし、かっこ悪い。 ということ。 ママディさんや他のジェンべ奏者の人が ジェンべを叩いている姿と、 自分が叩いている姿が あまりにも違っていて、 日本とギニアどころか天と地ほどの差があった。 ビデオの中の人はみんなアフリカの男性。 腕が長くて頭が小さくて、 たくましい腕には 見惚れるほどの筋肉がついている。 自宅で鏡を見ながらジェンべを構えて見てみると、 薄っぺらで猫背で頼りない そんなわたしの姿とジェンべが映っていて、 心の底からがっかりする。 そして腕が短くて頭が大きくて、 彼らとは全くの真逆のバランス。 手も小さいなぁ。 どうしようもないこのちんちくりんさ加減は、 まるで子供がジェンべを叩いているかのようだ。 自分と体型が違うのは当然なんだけど、 それでもなんか雰囲気が全然違うじゃん、、、 女だから?日本人だから? でもわたしもあんなふうにかっこよく叩きたい。 腕の振り方、手がジェンべを叩く角度、姿勢など ママディさんのビデオで毎晩研究した。 仕事が終わって深夜に帰宅して、 とりあえずビールの缶をプシュっと開ける。 そこから明け方まで ビデオを再生したり一時停止したり、 ひたすらそれの繰り返しだった。 年頃の女が四畳半の部屋で夜な夜なひとり、 何やってるんでしょうね。 今思い出しても笑える。 Yさんが以前、 「友人のHはスタジオでジェンべの個人練をする時、 鏡と時計を見ながら1分間連打するのを 何回か繰り返してるらしい。 まぁスポ根系の千本ノックみたいなものだね。 極限状態の自分をいかにかっこよく見せるか 鏡でチェックするというのがいかにもHらしいよな。 僕はそんなことしないけど、いい練習にはなる。」 とか言っていたのを思い出し、 わたしもやってみることにした。 1分どころか30秒も続かない。 その上何回も繰り返すなんて到底無理だった。 ジェンべ・フォラへの道のりは 当然のことながら、ま

ジェンべ・フォラとの遭遇 #3

イメージ
ママディさんのワークショップに、 初めて参加したわたし。 いち受講者として参加して、 大勢の人と一緒にジェンべを叩いた。 ごく普通に、それ以上でも以下でもなく、 ただそれだけだった。 ママディさんと言葉を交わしたわけでもない。 というか、もし何か話せなんて言われても、 フランス語なんてさっぱりわかんないから無理。 小心者のわたしは、他の参加者に紛れながら サインだけはちゃっかりもらって、会場を後にした。 本当にただ参加しただけなんだけど、 それでもわたしの心の中には今まで以上に、 爽快な風が吹いていた。 ますますジェンべが好きになって、 もう他のことは考えられないぐらいだった。 初めて聞いたママディさんのジェンべの音は それはもう言わずもがな圧倒的な迫力で、 あれだけ大勢の生徒が叩いている中でも ママディさんの音だけが 耳にはっきり届いてきて驚いたのを 今でもしっかり覚えている。 結果としてわたしは、 このママディさんのワークショップに 参加したことをきっかけに、 ジェンべに対する興味や好奇心が 多くの打楽器のなかのひとつという認識から、 西アフリカの民族楽器という方向へ、 徐々にシフトチェンジしていくことになる。 それはつまり、 気持ちのコンパスが指し示す方角が アフリカへ向かうということだった。 でもこの時はまだ全く意識していなかった。 それでも自然とそうなっていった。 まるでジェンべの中に宿る神様に 導かれるかのように、ゆっくりゆっくりと。 ママディさんが、 偉大なジェンべ奏者を讃えた敬称 「ジェンべ・フォラ」と 呼ばれていることもそのあとで知った。 今でこそ、頑張ってるジェンべ奏者くんを 「あんた、ジェンべ・フォラだねぇ」なんて言って 冷やかし半分に褒めたりもしてるけど、 その言葉を知った時は、 ジェンべ・フォラという言葉や存在が、 神々しく感じた。 ギニアという国があることも覚えた。 正確にはギニアという国を、 生まれて初めてちゃんと認識した。 学生時代の地図帳を引っ張り出してきて アフリカのページを広げたりもした。 Yさんのジャンベ教室へは この後もしばらく通うことになる。 習うリズムは、Yさんがアレンジした ブラジルやキュー

ジェンべ・フォラとの遭遇 #2

イメージ
車窓から見える 川土手の向こうの空に 巨大な入道雲が どんと腰を据えていた。 今日も朝から暑い。 ママディさんのワークショップ会場のあるT市は、 当時わたしが一人暮らしをしていた O 市内の中央部から 地下鉄と私鉄を乗り継いで1時間ちょっとの距離。 ジェンべを担いで電車に乗るのにも ずいぶん慣れた。 教室のジェンべ仲間とは日程が合わず、 この日のワークショップはひとりで参加した。 その後わたしの ママディ・ケイタさんに関する知識は 乏しいまま特に増えることもなく、 淡々と静かにその日を迎えた。 しかしワークショップ会場に入った瞬間、 静かだった心が急にざわざわと動きはじめた。 ひ、人が多い! ざっと見ただけでも会場にはすでに 30人ぐらいの参加者がいるのが見えた。 そしてわたしの後からも まだ次々と参加者が来場していた。 これ一体何人来るの? わたしみたいな初心者でも大丈夫なのかな? 不安な気持ちが一気にあふれる。 受付を済ませて、 まだ空いている席のその中でも 一番目立たなさそうなポジションをなんとなく選んで ジェンべをケースから出した。 ジェンべのワークショップは、 受講者が30人いれば30台のジェンべが揃う。 色、形、大きさ。 ロープの巻き方も似ているようで 微妙に違う。 ひとつとして同じジェンべがない。 いろんなジェンべがあるんだなぁ。 不安な気持ちをできるだけ鎮めようと、 始まるまでじっと眺めて観察していた。 しかし 叩き始めると、 もうそんなことはどうでもよくなって、 一気に気持ちが軽くなった。 ママディ・ケイタさんは、ギニア人だった。 そしてジェンべは、 ギニアのある西アフリカから世界に広がった、 ということがわかった。 そういった話をされている時の声や表情、 たたずまいから、 これはただの人ではないということが ママディさんの音を聞く前に すでに伝わってきたのが忘れられない。 参加者すべての人の心が、 ママディさんに引き寄せられていた。 当然ながらママディさんが話す言葉は 日本語ではなかった。